杉山さん
8週間のプログラムありがとうございました!熊野先生にも色々アドバイスを頂けて本当に濃い8週間でした。
ここで参加者のみなさんと共に学んだ事を思い出しながら、これからもマインドフルな生活を続いていきたいと思っています。
早速1つ質問があるのですが、ワークの最初の頃に1回だけやった「見る瞑想」(ブラインドを上げて外を見た)
その時はサラッと終わった感じだったので、どういう事をポイントにして行っていたのか忘れてしまいました。
何かを「見る」「見ている」事は日常で本当に多くて、目に入ってきたもので何かを思い出したり、考えごとが始まったり、ということが多いことに気づき(笑)
そんな時に「見る瞑想」をやってみたいのですが、もう一度ポイントを教えて頂けますか?どうぞ宜しくお願いします!
nagao さん
こんにちは。
杉山です。
早速フォーラムをご活用頂きありがとうございます。
「見る」瞑想は確かに1度ご紹介して、それきりになってしまいましたね・・・失礼いたしました。
マインドフルネスの練習は、全て基本原則は同じと思って頂いて問題ありません。
中心対象が呼吸であろうと、見ているものであろうと
食べているものであろうと、考えていることであろうと・・・
とにかく、たった今自分がその体験を”どのように”体験しているのかに充分に気づくことです。
ですから、「見る」という体験を、どんな風に自分が体験しているのかに注意を集めて、
「見る」というだけの行為に留まることができるかどうかを練習してみて頂ければと思います。
(もちろん、「見ているだけ」の時間を長時間キープすることは難しいですから
逸れたらそのことに気づき、戻ってくることを繰り返すことがとても大切です。)
まずは、たった今自分が見えているものを確認してみましょう。
例えば、何が見えているのか、どこからどこまでが見えているのか、
はっきり見えているものとそうでないものがあるのか、
どんな色が見えているのか、どんな大きさ、どんな形なのか
どんな質感で、それくらいの距離感なのか、動いているのか止まっているのか・・・など。
次に、そんな風にしていると頭の中で何が起こるのか、
体験がどう変化していくのかにも気づきましょう。
例えば、物が見えた瞬間に「木だ」「葉っぱだ」と瞬時に名前をつけて分類している、
動くものや大きなもの、好きなものに目を奪われる傾向がある、
色や形から受けている影響・・・
(強い赤い色を見ていると小さな緊張のような反応を身体がしている、
というシェアをして下さった方が以前にいらっしゃいました)
そうして名前をつけたり影響を受けたりしたものから派生して、
さらにそこに見えていないものまで思い出したり、想像し始めていること・・・
さらにさらに、そうして思考の世界が広がっていくと、今度は目の前の風景は目には入っているけれど
見えてはいない状態になる(それが何かまでは分からなくなる)こと・・・などなど。
見えているもの、見えているものに対する自分の反応、
その自分の反応に対してさらに自分が追加している対応(避けたり、執着したり、妄想したり・・・)
それらに気づいて、OKを出して、そしてまた、
ただ「見る」という行為に戻ることを練習して頂ければと思います。
ですから、既に「1日の中で物を見ている時間はこんなに長いんだな」ということや
「見ているものから派生していろいろ思考が生まれているんだな」と気づいたことは
もう充分に見る瞑想の練習が始まっているな、と思います!
自分の体験を気にかける習慣がついてきているので、
いつもどおりの活動の中でも、新たな発見があるのかな~と思いました。素晴らしいです!
ちなみに、いつもとは違う「見方」をするためのコツとしては、
なるべく分類しないでいてみる、できるだけ名前をつけないで
見えている物そのものが持っている性質(色、大きさ、明るさ、質感、形、近さ遠さ・・・など)に
注目してみるということを、お勧め致します。
グループの中で、ちらりとだけお話したかなと思うのですが、
私たちは、物事に名前をつけて分類する、ということを通して、
状況把握や他人とのコミュニケーションをスムーズにしています。
名前がついていると効率的で早くて楽なのです。
しかし、その反面、分類する作業には、物事を大雑把にくくってしまう側面があります。
木を見ると、瞬間的自動的に「木だな。葉っぱがついてるな。」と分類できてしまうので
急いで全貌を理解するのにはとても便利なのですが、
本当は、1枚1枚葉の色も形も大きさも違っていたのに、それは見落としてしまっているのかもしれません。
目には入っているけれど見えていない、見たつもりだったのに見落とす、というのは
効率を優先して大雑把な分類作業をした結果、細かな情報が落ちてしまうことからおきます。
この”分類”のメリット・デメリットは、視覚情報だけの話ではありません。
例えば、よく漫画や映画などで、ホームレスかと思ったら実は大富豪の社長だった、みたいな設定ってよくあると思うのですが
「汚い人」と分類すると、たまたまその日何かの事情があって汚れていただけだったのに
あたかもその人が「いつも」汚くて、いつも汚いということはお風呂に入れない生活をしていて、
ということは、仕事もなくてお金もない人で、ということは、能力もないダメな人間なんだ・・・
といった具合に、相手を大雑把に理解したところから、どんどん妄想が広がって、
真実から遠ざかってしまうので、真実を知らされたときに驚き慌ててしまう、というわけです。
「第1印象ではこんな人だと思わなかった!」と良くも悪くも相手のことを見誤ってしまう体験は、
きっと誰しもあると思います。
(大好きなペプシのCMのYoutubeのリンクを張っておきます。
おじいちゃんに扮したNBAバスケ選手が大暴れするドッキリ。
これが痛快なのは、視覚情報の分類による評価が、良い意味で大きく裏切られるからですよね!
https://www.youtube.com/watch?v=8DnKOc6FISU&t=11s )
すみません、話が少し膨らみすぎて逸れてしまいました。
「見た目で判断するのは止めよう」というお話ではありません。
会う人会う人全員に評価や判断をしないでおくことはできないし、
そんなことしたら日常生活に支障でまくりです
(ある程度他人を評価するのが仕事のこともたくさんありますので)。
分類・評価・判断を”してはいけない”わけでは決してありませんが
(しないでいようとしても、自動的にしてしまうから無理でしょうし・・・)
いつもしている分類・評価・判断に気づいて保留にしよう、というつもりで練習してみると、
これまで見えていなかったものが、どんどん見えてきたり
逆に、ありもしないものまで見た気になって右往左往していたのが、落ち着いてきたり
新しい世界が広がっていくかもしれない、と思います!
「世界はこんなに刺激的で美しかったのか・・・」と思えてくるかも??
(逆かもしれないですけどね・・・笑)
是非、試してみてください。
試してみた結果、どんな体験をされたか、またシェアして頂ければ嬉しいです。